2012年8月17日金曜日

夏の自由「律」研究~自由律俳句について思うこと~


 俳句歴半年の自分が偉そうなことを書くのもどうかとは思うけれど、俳句、特に自由律に関して自分がわかっていないことは何かということについて、頭の中を整理するつもりで書いてみた。
 夏休みの宿題気分で。

1 自由律ということ
 自由律とは定型に収まらない自由なリズムであること。リズムについてはいろいろ考えることもあって、そこにこだわりすぎて定型よりも不自由だなぁなんて感じてしまうこともあった。
 おそらく「内在律」というものに対する理解が不足しているからだと思う。今は「定型からはみ出す」もの、その時に生まれるリズムとは何だろうということに関心があるけれど、いろいろ試してみては失敗を繰り返している。

2 自由律俳句は俳句である
 この定義を拒否する人がそれなりにいることは承知しているけれど、自由律俳句は俳句のありようの一つであって、俳句から独立した別ジャンルではないと考えている。
 そして定型と自由律を必要以上に分けて考えなくて良いのかなと思うようにもなった。

3 自由律短詩型はすべて「自由律俳句」なのか
 例えば、スゴつぶは10~25字程度の口語というルールがあるだけで俳句であるかどうかは問題としていないけれど、その条件で集まった句をすべて自由律俳句と呼ぶのは少々無理があるような気がする。
 スゴつぶでは「自由律句」という言い方をしているが、自由律句という言い方には「自由律俳句を含めた自由律短詩型いろいろ」というニュアンスが含まれているように感じる。
 スゴつぶ以外で使われている「自由律句」も同様かどうかはわからないけれど、自由律俳句とは区別する意図はあるのではないだろうか。
 川柳や短歌にも自由律があることから考えても、自由律の短詩型がすべて「自由律俳句」というわけではないだろうと考えている。

4 俳句とは何か
 自由律俳句が俳句の一ジャンルであって自由律短詩型すべてが自由律俳句ではないとすれば、必然的に「俳句とは何か」という命題にぶち当たる。
 その答えを探し続けているけれど明確な答えは見つからない。
 韻文であることというのはひとつの手がかりだと思うけれどそれだけでは不十分だろう。
 自由律俳句とは何かということもよくわかっていないくせに、定型と自由律を跨いで「俳句とは何か」と考えることは無謀なことかもしれないけれど。

 ということで、わからないことだらけではあるし、ここに書いたことの中には多くの勘違いや間違いがあるだろうけれど、いつかこれらのことに自分なりの答えが見つかったらいいなと思っている。
 ちなみに、定型と自由律の関係って、厳しい校則とそれを拡大解釈してはみ出そうとするせめぎ合いみたいだなんて思ったりもしている。

                               By かもせり(なかぎり代理投稿)

2012年8月14日火曜日

この夏のこと


 一度、母を抱き起こすと、それまで母に触れられるのも触れるのも猛烈な抵抗感があったことなど、驚くほどあっけなく解け流れた。

 存外、男とはそう言った、傍からみると実にくだらない呪いをかけられながら生きているものなのかもしれない。

 青年期からこっち、明確に母に触れた記憶は、父が急死し警察の霊安所で夜を明かすことになった遺骸から母を引き離すときに肩を抱いたとき以来だから、もうざっと20年は過ぎているだろう。
 霊安所は、本建屋の外の駐車場の片隅にあるコンクリート造りの陰気な建物だった。

 その母が、6月の半ばから身動きが取れなくなった。
 介護が必要になった。
 足や腕の関節に、ひどい痛みを感じているようで、腰が立たぬどころか、半身を起こすことも出来なくなった。

 本当に突然だった。
 その半月前まで、ひとりで電車に乗って横浜や近所に買い物などに、腰軽く行っていたのが、これといった表立った原因もなく、そんな状態になった。

 色々と病院で原因を探ったり、介護の認定処理をしたりとどうにもこうにもバタついた日々が続いた。
 そして今現在も、続いている。
 血液やレントゲン検査の結果、全身の骨にも内臓にも異常はなく、脳の精密検査の結果も歳相応の内容で、大きな問題はなかった。

 私は、堅気の勤め人を離れて久しい。
 ちょうど仕事の切り替わりの時期で、何とかこれらのことで駆けずり回る事には対応できたのだが、今もって次の仕事は確定していないこともあり、フトコロ具合もなかなかにスリリングな展開を見せている。

 今日まで、いろいろな人に力や知恵を借りながら、こまごまとしたヤマを乗り越えてきた。
 深夜、トイレまで這っていこうとする母に、どう介添えしてよいものか途方にくれながらも、わずか3mの距離を親子で1時間以上も四苦八苦したことや、15cmの段差が降りられずに最後はおぶったことや、服を着替えさせること、パンツ型おむつを取り替えること、背中を拭くこと、ズボンを上げること、座薬を入れること、水を飲ませること、抱き起こすこと、デイ・ケアへの体験入所に一日付き添うこと・・・。
 これらのことは、一度経験してしまえばそれほど苦痛ではなく、むしろ子供の面倒を見るような錯覚すら持つ。
 しかし、最後の最後は、タガの外れたように楽天的に開き直れてきたはずの母が、泣きながら生きる事を嘆く姿を眼にした時には、何より堪えた。

 先日、やっと介護認定がおりた。
 要介護4。
 MAXが5との事なので、それなりの重さのようだが、ちょうど認定のための審査に役所の方が訪問された7月初旬は、今から思えば一番ひどい時期だったような気がする。

 母も、私も、この新たな生活の形に慣れ始めてきたのかもしれない。
 当初は、叫ぶように訴えていた痛みも、最近はやや落ち着いているようだ。
 私が入れる、鎮痛剤の座薬の回数も減ってきている。

 同居しておきながら、ここには書きたくない諸々の事情で、母を「ひとりで生活させていた」私は、大きな減点をしてきたのだと思う。
 いまその減点の穴埋めをしなければならないようだ。
 どこがプラマイゼロなのかは分からないが、出来うる限り、黙々と、でも息を抜きながら、続けようと思う。

 本日やっとケア・マネージャーが決まり、デイ・ケアに週2回いく方針で事が動き出した。

 やっとひとつ片がついた。
 本格的な介護生活へのスタート準備が整った。

 これから先のことは、何ひとつ分からん。
 だが、『なるようにしかならんし、何とかなるだろう。』

 これは、幼いころから引っ込み思案で何かとウジウジしていた私が、母から言われ続けてきた言葉だ。
 なに、当節、介護生活は珍しいことではあるまい。
 私も母の血を濃く受け継いで、タガの外れたように楽天的に開き直れるのだ。

 ・・・きっと。


 これからの長期戦を前に、一度この2ヶ月を振り返って、ここに載せておく。
 心配ご無用。
 なぜなら私は、あの素敵に能天気で、素敵にアブノーマルな集団「アぽろん」の代表なのだ。

 かもめ(@YHhama)さん他、一部事情をお知らせした方々の励ましやご助言に、改めてお礼いたします。
 今後とも、よろしくお願いいたします。

 今後も、何も変わらない代表でい続けたいと思う。
 ・・・でもホントは、もう少し、しっかりしたほうがいいと思ってるのよ、ホントだよ。
 でもこればっかりはねぇぇ。。。